個人的な文学体験(後編)
こんばんは。山田です。
今日は昨日のつづきを書きます。
学生時代に熱中したロックの仲介で、僕は“文学”を意識しはじめました。
でも、あくまでも意識しただけです。
“マニアックな詩人の詩集とか読んでるバンドマンってモテそうだな”と思って無駄に小難しい小説や詩集を買うようになりましたが、まともに読んでいません。それらの本は持ち歩くために買ったのであって、読むためではありませんでしたし、本を読まないことで困ることは少しもありませんでした。
さて、できるだけわかりやすく書こうと思ったらほとんど「半生をつづる」状態になっていますが、ここからが読書をするようになった直接のきっかけです。
学生時代、僕には交際していた女性がおりまして、彼女は小説・詩集が好きなようでした。
“ようでした”というのは、僕がアクセサリーとして買った本を見つけては、その本の感想やら作家の話やらを話してくれたことから、そのテの知識を持った人物だということは何となくわかっていたのですが、僕が読書をしないため本について話すことが基本的にはなかったからです。
交際して3年くらいたった時に、ほとんど何を話しても別れ話に向かうような時期がきまして、お互い会うと毎回別れる話をしていました。経験がある方もいると思いますけど、そういう時って別にケンカをするわけではないんです。
ある日、例によって静かに別れ話をしている時に、彼女がボソッと「おまえと話していてもボキャブラリーが貧困だしつまらない」みたいなことを言ったんです。
正確な言いまわしはもう覚えてないですけど、
「おまえ退屈なんだよ」
「あんたのしゃべることは全部どこかで聞いたことがあるような話だな」
「テンプレか」
とか、そんな感じのことでした。
今でもたまに思い出しますが、これは相当にこたえました。
こういうのって言う方もダメージを受けるようで、それが決定打となって僕はその女性と別れてしまいました。
話がつまらないと言われたことは、知的コンプレックスと直結しました。
その時に真っ先に思い浮かんだのは“文学”のことであり、自分が本を読んでこなかったことです。
知性=文学・小説となってしまうあたり、頭の中が単純なんでしょうね。
本を読んだって話がおもしろくなるはずがないのですが、ともかく僕は知性を求めて“文学”と呼ばれる本と真剣に向き合うことになります。知性がないおかげで身の回りから親しい人が一人いなくなってしまうという事態ですからガチです。
それで、別れて2カ月くらい経った頃にその女性と会う機会があったので、どんな本が好きなのか聞いてみました。
本を読み始めると言っても、今まで何もしてこなかったので何を読んでいいかもわからなかったんです。
だからその時に彼女が好きだと言った作家の本をとりあえず読んでみることにしました。今考えると女々しい限りですが。
読書原始人に配慮してか、三浦綾子の『氷点』と浅田次郎の『地下鉄に乗って』というわりと読みやすいものを紹介してくれました。
『氷点』はまったく魅力が理解できませんでした。
『地下鉄に乗って』は面白かったのですが、僕の求めている“知性”とはちょっと違う気がした。
ただ、2冊読了したことは自信になったので、自分でもネットとかで調べて“知性”が身に付きそうな本を探し始めました。
- 作者: 三浦綾子
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1982/01
- メディア: 文庫
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その過程で“とある本”に出会いました。
肌に合ったのか、僕はその本を夢中になって読みました。
驚くような言葉の使いまわしがあったり、文章構築も奇抜ですばらしかった。
読書にそれほど熱中したのは小学生のころ以来でした。
あんまり面白かったので、次にその女性と会った時にその話をしたら、彼女は
「そういうのが好きなら安部公房や大江健三郎やフォークナーを読んでみるといい」と言いました。
言われるがまま読んでみるとそれらはやはり満足できるもので、そこから一気に色々な作品を読むようになりました。
特に『砂の女』は読書原始人にもわかりやすかった。
- 作者: 安部公房
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2003/03
- メディア: 文庫
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以上の経緯で僕は本を読むようになりました。
ただ、そのきっかけになった“とある本”が何だったのかがどうしても思い出せないんですよね。。
安部公房や大江やフォークナーを薦めたくなる本です。
心当たりがあったらぜひ教えてください。
長くなってしまいましたが、本日はこれにて。